誰も幸せに死ねない 「さあ、どうぞ。ようこそいらっしゃいました。こちらへお掛けください、お客様。お荷物は私がお預かりいたします。さあ。」 その人はとても楽しそうに笑いながら、半ば強引に私を品の良い華奢な椅子に座らせた。こういったものをアンティークと言うのか、兎も角も私には似合うはずのない代物だ。目の前の、この椅子と同じデザインをした円いテーブルも、白くてか細いティーセットも。 その人は私のくたびれたボストンバッグをチェストに置くと、いそいそと戻ってきて嗅いだ事のない匂いのするお茶を淹れた。気になって「これはなんですか」と問うてみたが、「お茶でございます」というわかりきった答えが返ってくるだけだった。私はやれやれと息を吐いて膝の上で両手を強く握った。その人は笑っていた。まるでこの世のなにもかもが面白くてたまらないとでもいう風に。 「あなたは辛くないんですか。」 握った手をじっと見降ろしたまま、カップの縁に落ちてソーサーに流れていく澄んだ赤茶色の液体を視界の隅にみとめる。私にはそれが動揺のあまり流れ出る焦りの象徴に見えた。あるいは、陳腐な涙とか。 しかしその人はそのカップを布巾できれいに拭いて私に手渡し、笑んで言うのだ。「辛いことなど何もありません。私はこうしてお茶をお淹れできるだけで幸せでございます。」私は顔を上げてその笑顔を隅々まで眺め、温かいカップを受け取ってまた俯いた。この人はきっと私とは対極の位置にいる人なのだ。わかってなどもらえない、と。 「あなたはお辛いのですか。」 ほとんどオウム返しにその人は訊ねた。私は一瞬躊躇って、それから「はい」と淀みなく答える。しかしそうしてしまうと何か居心地が悪くて、困った末に手元の温かいお茶をゆっくりと啜った。おいしい、とは思わなかったが、すんなりとしていて腑に落ちるような気がする。――なんだかどこかで味わったような味だ。ばつの悪さなどすっかり忘れて首を傾げていると、いつの間にかすぐ目の前にその人の顔があった。驚いて肩が跳ねたが、それ以外の反応を示す前に顔はするすると引き下がって向かいの席のあるべき場所に戻る。 「お口に合いませんでしたか?」 「いえ。でも不思議な味がしますね。」 「どんな味でしょう。」 その人は目元をやわらげてそう訊ねてきた。私はしばらく考える。 「・・・とても素直です。だけど味気ない。しっくりは来るんですけど。」 「そうでしょう。それはあなたの人生の味ですから。」 「え?」 「人生です。」 私が聞き返したのにすぐさま切り返し、その人はまた楽しそうに笑う。私は手元の澄んだ赤茶色に映る顔を覗いて呆然とした。何から理解していいかわからないで止まってしまった頭は、その人のくつくつという笑い声にじわじわと蝕まれるようだ。けれど私はその黒い靄を掃って立ち上がる。その人は驚いた様子で、真顔になって私を見上げた。 「お気に召しませんか、人生の最後の一杯をご自分で飲み干すというのは。」 「この一杯で私はどれだけ生きられたんですか?」 「さあ。まあ、せいぜい二、三日でしょうが。」 二、三日。その大きさを経験で量ろうとしたところで、その人が立ち上がる。目線は私より少しだけ高い。 「どちらにしろ"味気ない"のですから、どうせならすぐに終わらせた方が潔くてよろしいかと存じますよ。」 「味気なくとも私の人生です。どう使うかは私に委ねられているのではないんですか。」 「ええ、ですが、そうは言いましても。」 その人の目が弓形に細められ、両手がその首を絞めるように巻きついていく。ちゃんとした人の色をしていた指は瞬きの隙に縄になり、高いと思っていたその人の爪先は私の脛ほどの位置でゆらゆらと不規則に揺れる。口は中途半端に開き、頬はやけに硬質な色に変わって、足元には何かよくわからないものが零れ広がり始めているのに、目だけはまだひどく愉快そうに弓形をしていた。 そんな奇妙なものに、なぜか私は恐怖も違和感も覚えなかった。ひどくすんなりとした実感として腑に落ち、そのままどこかへ溶け込んで行く。 「もう手遅れ、でございます。」 「――あぁ」 私は残りのお茶を飲み干した。最後の一滴が喉を通るが早いか、目の前の私は死人らしく目を閉じて何も言わなくなった。しかしそれを見るが早いか、私も消えて無くなったのだ。 |